1542年生まれの武将 01

太田 氏資 (オオタ ウジスケ)1567年

出身地武蔵国。扇谷上杉→北条。太田資正の長男。父資正が生涯にわたって反北条であったのとは反対に正室に北条氏康の娘を娶り、北条家の家臣として戦った。父資正の影響力も大きく、資正が次男梶原政景に家督を継がせようとしたこともあり、一時は出家までしたが還俗し、岩付城城主となった。里見家との戦い(三船山の戦い)で殿を引き受け討死した。

岡部 正綱 (オカベ マサツナ)1584年

出身地駿河国。今川→武田→徳川。今川家に仕え、桶狭間の戦いで義元が討ち取られた後も氏真をよく支えたが、今川家の滅亡後は武田家に仕えた。武田家臣になってからも戦で功を重ねたが、武田家衰退しが遠江や駿河の支配を維持できなくなってからは徳川家康の家臣となった。家康が今川家の人質であった頃から、友好関係があったとされている。

兼松 正吉 (カネマツ マサヨシ)1627年

出身地尾張国。織田(信長)→織田(信雄)→豊臣→徳川。信長の馬廻衆として活躍したが、本能寺の変後は信雄に仕える。信雄が豊臣家の家臣となると秀吉に仕えるようになった。関ケ原の戦いでは東軍に属し、その後松平忠吉に従うも忠吉が病死したことにより尾張藩初代藩主徳川義直の家臣となり尾張にて過ごした。

1541年生まれの武将 02

毛利 秀頼 (モウリ ヒデヨリ)1593年

出身地尾張国。織田→豊臣。尾張守護斯波義統の子。織田家赤母衣衆出身。赤母衣衆ができる以前より織田家に仕え桶狭間の戦いで活躍。その後も織田家主要な戦いに転戦した。武田家滅亡後に、信濃飯田城にて城主になるも本能寺の変により城は放棄し尾張へ戻った。その後は豊臣秀吉に仕え、小牧長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐にも参戦し、再び信濃飯田城城主となった。

千葉 親胤 (チバ チカタネ)1557年

出身地下総国。千葉家26代当主。6歳にして家督を継ぐ。親北条の家臣が家中の実権を握っており、元服後も力を持ち続けたことに不満を持ち、反北条の勢力と友好関係を築くも、北条より攻められ降伏。幽閉の末暗殺された。

水野 忠重 (ミズノ タダシゲ)1600年

出身地尾張国。織田→徳川→織田(信忠→信雄)→徳川。姉、於大の方が松平広忠の正室でかつ家康を生んだため、徳川家康の実の叔父にあたる。織田家に仕える兄信元に従うも、関係の悪化から徳川家に仕える。1580年に謀反を疑われ織田家に自害させられた兄信元が冤罪であることがわかると、信長の命により水野家の家督を継ぎ織田家の家臣となり、信忠に付き従った。本能寺の変が起こり、信忠が亡くなると織田信雄に仕えるようになった。信雄が秀吉の臣下になった際は、信雄ではなく秀吉の直臣となり、長年の武功もあいまって伊勢神戸城、のちに旧領三河刈谷城を治めた。

1541年生まれの武将 01

足利 義氏 (アシカガ ヨシウジ)1583年

出身地下総国。北条家家臣。第5代古河公方として形式的には古河公方を継いだが、父晴氏が川越城の戦いにより敗北、幽閉されていたこともあり基本的に北条家の傀儡であった。北条家に従い、家は続くかと思われたが、長男が早くに亡くなっていたため、家の断絶の危機を迎えた。豊臣秀吉の仲介等もあり氏姫が分家である足利頼氏と婚姻、後継者も生まれたことにより喜連川として命脈を保った。

穴山 信君 (アナヤマ ノブタダ)1582年

出身地甲斐国。武田→織田(徳川)。武田の一門衆。父信友と共に武田家から娘を娶り正室としている。駿河侵攻時の調略やその後の統治において活躍をしている。甲州征伐においては早い段階で織田(徳川)と接触し甲斐国と武田家の継承を条件に寝返った。本能寺の変時には家康と共に堺におり、その報せを知り畿内からの脱出をはかるも、落ち武者狩りあるいは一揆勢により殺されたとされている。

吉良 親貞 (キラ チカサダ)1576年

出身地土佐国。長宗我部家家臣。長宗我部国親の次男で武勇に優れ、よく元親を助けた。吉良家に婿養子として入り家督を継いだ。五摂家一条家との戦いでは特に武功が多く、元親に代わり総大将を務めることもあった。しかし、35歳の若さで病死し、これにより長宗我部家の領土拡大が大きく遅れることになった。

1540年生まれの武将 02

成松 信勝 (ナリマツ ノブカツ)1584年

出身地肥前国。龍造寺家家臣。龍造寺四天王の一人。大友家との今山の戦いでは目覚ましい活躍をし、大友宗麟の男親貞を討ち取った。沖田畷の戦いで主君龍造寺隆信と共に討死した。

丸目 長恵 (マルメ ナガヨシ)1629年

出身地肥後国。相良家家臣。京にて上泉信綱に師事し新陰流を学んだ。相良家に戻ったが、将としては相良家に貢献できなかった。しかし、兵法、剣術に研鑽をつみ「タイ捨流」をあみだし、剣術指南をするようになった。相良家にとどまらず九州において高く評価され、立花宗茂、鍋島直茂なども学んだと言われている。

 

 

1540年生まれの武将 01

小浜 景隆 (オハマ カゲタカ)1597年

出身地志摩国。北畠→武田→徳川。北畠家にて海賊衆の頭領であったが、織田家との戦いで敗れた。武田信玄が駿河侵攻し、水軍を創るために呼ばれ、武田家に仕えるようになった。武田家の滅亡後は徳川家康に仕えるようになり、海戦を中心に活躍した。

樺山 忠助 (カバヤマ タダスケ)1609年

出身地薩摩国?大隅国?。島津家家臣。島津家随一の和歌の詠み手である樺山善久の次男。犬追物の名手。大友家との戦などで功をあげた。

木曾 義昌 (キソ ヨシマサ)死去年不明

出身地信濃国。武田→織田→北条→徳川→豊臣→徳川。武田家の信濃侵攻に降伏し、美濃、飛騨の境目の重要拠点でもあり、信玄の娘を正室として迎えている。しかし、国境の重要拠点であることに加え、木材等の資源が豊富でもあり、武田衰退後は織田、北条、徳川、豊臣、徳川と主君を変えていった。徳川家の関東転封に伴い下総国阿知戸に移った。

島 清興 (シマ キヨオキ)1600年

出身地大和国。筒井→蒲生→石田。島左近として有名。石田三成に過ぎたるもの評されるほどの人物。筒井家をよく支え活躍したが、筒井順慶が死に定次が跡を継いだ後筒井家を離れる。その後、石田三成仕え、関ヶ原の戦いでは獅子奮迅の戦いぶりを見せた。

豊臣 秀長 (トヨトミ ヒデナガ)1591年

出身地尾張国。豊臣秀吉の弟として兄をよく支えた。温和な性格で、秀吉が天下人になった後は、調整役として機能したが、秀吉より7年も早く亡くなった。蜂須賀政勝と言った古参の将もすでに亡くなっており、秀吉に諫言できるような存在もおらず、豊臣政権の弱体化に繋がった。

1539年生まれの武将 02

鳥居 元忠 (トリイ モトタダ)1600年

出身地三河国。徳川家家臣。家康が今川家の人質としてあった頃からの家臣。兄忠宗が討死したのち鳥居家の家督を継ぐ。徳川家の主要な戦を転戦した。会津征伐時に伏見城を任され関ケ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで籠城戦を繰り広げた。約20倍を兵力を相手に10日以上耐え、西軍の展開を遅らせた。討死するに至ったが、その忠義の心は「三河武士の鑑」と呼ばれた。

前田 玄以 (マエダ ゲンイ)1602年

出身地美濃国。織田→豊臣→徳川。織田信長に評価され家臣となる。信忠に従っていたが、本能寺の変があり死ぬと信雄に仕えた。京都所司代に任命され京の治安維持に尽力。やがて豊臣秀吉に仕えるようになり五奉行の一人となった。関ケ原の戦いでは西軍につき大坂城をにあったが、西軍側の情報を徳川家に流していたことや、京都所司代としての経験等もあり、京に一定の影響力(人脈等)もあると考えられ丹波亀山の所領を安堵された。

 

1539年生まれの武将 01

安東 愛季 (アンドウ チカスエ)1587年

出身地出羽国。安東家当主。長らく分裂していた安東家をまとめ、勢力を拡大。南部家、大宝寺家などと争った。また、交易、商業に関しても積極的で東北屈指の港湾都市を作り上げた。

小山田 信茂 (オヤマダ ノブシゲ)1582年

出身地甲斐国。武田家家臣。甲斐の有力国人として武田家に従う。小山田信有の死後、家督を継いだ。川中島の戦い、駿河侵攻、長篠の戦いなどにも参戦している。しかし、甲州征伐により、勝頼が頼ってきた際は拒絶し、織田家への臣従を謀るも武田家への不忠を理由に処刑された。

長宗我部 元親 (チョウソカベ モトチカ)1599年

出身地土佐国。長宗我部家21代当主。長宗我部国親の長男として生まれ、若き日は「姫若子」と呼ばれ初陣で功をあげ、その勇猛さから鬼若子と呼ばれ、土佐の国人から土佐一国をまとめ、四国の大半を統べるようになると、出来人と呼ばれ評価された。敵対勢力である本山家、大恩ある一条家を降した。織田家が力を強めると、時勢を読み、長男千雄丸の烏帽子親を信長に依頼することで友好関係を築いた。豊臣秀吉が信長亡き後、勢力を拡大していくも反抗し敗れ土佐一国への大幅な減封となる。その後、九州征伐に先んじて、大友家への援軍として参戦するも、戸次川の戦いで長男信親が討死にする程の惨敗をする。元親の失望はあまりに大きく、以前とは人が変わってしまったと言われる。

1538年生まれの武将 02

百武 賢兼 (ヒャクタケ トモカネ)1584年

出身地肥前国。龍造寺家家臣。龍造寺家の主要な戦を転戦し当主龍造寺隆信より武勇を評価された。百人並みの武勇を有すると評価され百武の姓を名乗るようになった。龍造寺四天王の一人。沖田畷の戦いで隆信と共に討死した。

北条 氏政 (ホウジョウ ウジマサ)1590年

出身地相模国。後北条家四代当主。氏康の次男として生まれるも長男が、幼くして亡くなったために跡継ぎとなる。正室に武田信玄の娘を迎えている。家督を譲られ氏康も老いて北条家における実権を握った後は、一度は関係が悪化した武田家との関係の修復を図った。また、里見家や佐竹家と争いながらも堅実に領土を拡大していった。武田家が織田家と対立し滅亡したのに反して信長が死ぬ前の時期では織田家に臣従していたが、信長が死んだのち、北条家は豊臣秀吉と対立した。この時すでに家督は氏直に譲っていたが、依然として高い影響力を持っており、主戦派として小田原征伐を招いてしまい、秀吉から切腹を命じられ、北条家が滅亡するに至った。

細川 真之 (ホソカワ マサユキ)1582年
出身地阿波国。阿波細川家10代当主。父、持隆が三好実休(義賢)に殺されると実休により傀儡として当主となる。実休(死後はその子長治)が兄三好長慶と連携して細川家を三好家の勢力として組み込もうとされるも反抗した。長宗我部の力を借り、三好長治を討ち倒したが、その後も織田家、長宗我部家の争いの狭間にあり、戦に敗れ自害したと言われる。

本多 正信 (ホンダ マサノブ)1616年
出身地三河国。徳川家→松永家→徳川家。徳川家に仕えるも三河一向一揆では家康と敵対し、鎮圧された後は大和国の松永久秀に仕えた。諸国放浪を経て徳川家に帰参する。その後も家康の参謀として近くにて仕え交渉事などで多くの功をたてた。家康からの信頼も厚く、友のように言われていた。

 

1538年生まれの武将 01

今川 氏真 (イマガワ ウジザネ)1615年

出身地駿河国。今川家12代当主。今川義元の長男として生まれる。桶狭間の戦いで父義元が討死する。勢力維持に努めようとするも、徳川家康(当時は松平家康)の独立、武田家の方針転換(徳川家、織田家との関係を構築しての南下政策等)により、領地を追われることとなる。その後北条家、徳川家、京などで暮らした。歌道や蹴鞠など一流で、一流の文化人でもあった。

佐武 義昌 (サタケ ヨシマサ)1620年

出身地紀伊国。本山→雑賀衆→豊臣(浅野)。若くして鉄砲を修め、根来寺に入り仏門における修行をする。一時、土佐の本山家に仕えるも雑賀に戻り織田家と徹底抗戦する。秀吉の治世の中でも、初めは反抗したが、後に当代きっての鉄砲の名手でもある浅野幸長に仕えるようになった。

武田 義信 (タケダ ヨシノブ)1567年

出身地甲斐国。武田信玄の長男。信濃攻めや上杉謙信との川中島の戦いでも大いに活躍したが、今川義元亡き後の今川家に対する方針で信玄と対立し、義信側の信玄暗殺計画が露見すると幽閉され、病死あるいは自害したとされる。

鍋島 直茂 (ナベシマ ナオシゲ)1618年

出身地肥前国。龍造寺→豊臣→徳川。龍造寺家当主隆信の従弟かつ、義弟として龍造寺家拡大に尽力する。沖田畷の戦いで隆信が討死にした際は当主が討死するという状況下にありながら有利な条件で和睦した。秀吉による九州征伐が始まると秀吉に従い、立花宗茂らと共に先陣を切って戦った。関ヶ原の戦いでは息子勝茂は西軍についたが、直茂は東軍についた。直茂の活躍により、主家であった龍造寺家より力を持つようになり関係は悪化をした。また、家康より鍋島家が肥前佐賀を治めることを認められた。

1537年生まれの武将 03

島津 歳久 (シマヅ トシヒサ)1592年

出身地薩摩国。島津貴久の三男として島津家をよく支えた。豊臣秀吉による九州征伐に対し評定の中で秀吉の実力を高く理解しており、義久、義弘、家久の中でただ一人和睦を主張するも受け入れられることはなかった。梅北一揆の際、秀吉から一揆の首謀者の一人とみなされ、兄義久の軍により討死した。実際は謀反の心はなく、一揆に加担していなかったと言われる。

清水 宗治 (シミズ ムネハル)1582年

出身地備中国。三村家(石川)→毛利家。初めは三村家家臣石川家に仕えていたと言われるが、三村家が毛利家と対立した際、毛利家家臣となったと言われる。主に小早川隆景の元で働き、高く評価された。織田家による中国攻めにあたり、居城備中高松城にて籠城したが、黒田官兵衛が案による水攻めにより降伏(この直前に本能寺の変が起こる)。責任をとり、自害した。

下間 頼廉 (シモツマ ライレン)1626年

出身地摂津国?浄土真宗石山本願寺所属。浄土真宗本願寺派宗主顕如の元で織田信長と対抗したが石山合戦が終わり、石山本願寺を去った後は特定の勢力につかず、むしろ全国の一向宗徒の織田家との対立を辞めるよう説いた。信長の死後は、一向宗の有力人物として他方から軍を提供して欲しいと依頼されたが中立を近づいた。天下の趨勢が豊臣秀吉に傾くと、秀吉に従い本願寺町奉行に任じられた。