1544年生まれの武将 03

徳山 則秀 (トクヤマ ノリヒデ)1606年

出身地美濃国。斎藤→織田→豊臣(丹羽、前田)→徳川。初めは斎藤家に仕えていたと言われるが、のちに織田家に仕えて、柴田勝家の元で活躍した。豊臣秀吉に勝家が敗れると丹羽長秀に、丹羽家減封により、前田家に仕えるようになった。徳川家康に仕えた。

延沢 満延 (ノベサワ ミツノブ)1591年

出身地出羽国。最上家家臣。初めは最上八楯の天童家に仕え、高い武勇を誇っていたが、最上義光の調略により義光の家臣となった。

山田 有信 (ヤマダ アリノブ)1609年

出身地薩摩国。島津家家臣。島津家の家老。島津家15代当主貴久に近侍した。伊東家との戦いや耳川の戦い、九州征伐時の籠城などでも活躍した。忠誠心も高く、九州征伐時の籠城では島津義久がすでに降伏しており、義久からの降伏を勧められて、初めて降伏するに至った。

山田 宗昌 (ヤマダ ムネマサ)1620年

出身地日向国。伊東家家臣。北郷家や島津(豊州)との戦いで武功を上げた。また、主君が伊予国に逃れた際も九州に残り、大友家家臣佐伯惟定の客分武将として活躍し、島津の軍勢を退けたという。その後島津家や大友家からの高禄での誘いを断り、豊臣秀吉により伊東家の大名復帰が叶うと、家臣として働いた。

島津家久からも高く評価されており、恐れられたとの話がある。

1544年生まれの武将 02

伊達 輝宗 (ダテ テルムネ)1585年

出身地陸奥国。伊達家16代当主。伊達晴宗の次男。祖父稙宗により拡大した伊達家であったが、稙宗、晴宗との父子での対立から天文の乱が起こり、最上、相馬といった一度は従属させた勢力が力を持ち奥州内での権威は落ちていた。稙宗、晴宗が争ったように、輝宗は隠居した晴宗が実権を掌握していることに不満があり、対立したが家中を掌握。上杉、蘆名、佐竹等周辺の大名だけでなく織田、北条といった大名とも精力的に外交関係をもち、利用しながら勢力拡大を、行なった。祖父稙宗に匹敵する勢力にもなり、大きな影響力をもったが、伊達家二代に渡る教訓からか早々に隠居した。その後畠山義継の謀にはまり、人質とされたが、生き恥をさらすことを良しとせず、家臣に自分もろとも撃つ様にいい放ち、畠山吉継らとともに亡くなった。

東禅寺 義長 (トウゼンジ ヨシナガ)1544年

出身地出羽国。大宝寺→最上。大宝寺義氏より信を得て義氏の娘を正室として迎えるも、次第に対立し義氏を暗殺した。最上家を後ろ盾とし庄内地方を治めたが、上杉家の支援を受けた大宝寺義勝と十五里ヶ原の戦いで戦うも、軍の中に内通者がいたこともあり、敗れ討死した。

 

 

 

 

1544年生まれの武将 01

小貫 頼久 (オヌキ ヨリヒサ)1603年

出身地常陸国。佐竹家家臣。主家佐竹家が対北条の姿勢を貫く中で外交面で大きく活躍し、上杉謙信、武田信玄などと交渉した。関ヶ原の戦いの後、佐竹家が出羽国久保田へと減封されるも、付き従った。

相良 義陽 (サガラ ヨシヒ)1581年

出身地肥後国。相良家18代当主。相良晴広の長男。肥後国南部の人吉城を拠点とし、島津、大友のといった実力者を相手に上手く立ち回った。島津家の勢力拡大にともない島津家に従うようになった。島津家からの要請により不戦を約していた阿蘇家領地に侵入するも甲斐親直の奇襲により討死。その死は敵味方共に惜しまれたと言われる。

竹中 重治 (タケナカ シゲハル)1579年

出身地美濃国。斎藤→織田(豊臣)。黒田如水と並び評される、豊臣秀吉の軍師。初めは斎藤家に仕えるも、主君龍興との不仲から出奔。浪人中、秀吉から三顧の礼で向かい入れられた。生きている間は秀吉の多くの戦いに参戦し勝利に導いたと言われる。稲葉山城を少ない人数で奪い取ったという話や黒田如水が荒木村重のこもる有岡城に説得に行ったが帰ってこず、信長から裏切ったとみなされ、人質を殺すように言われるも、裏切ったことを信じず密かに匿ったという話が残っている。