1543年生まれの武将 03

田北 鎮周 (タキタ シゲカネ)1578年

出身地豊後国。大友家家臣。大友家の将として転戦する。大友家の衰退の決定にした耳川の戦いでは、敵軍内に突撃し陣が伸び切ったところを反撃にあい大敗。討死した。

堀尾 吉晴 (ホリオ ヨシハル)1611年

出身地尾張国。織田→豊臣→徳川。岩倉城城主織田信安に仕えるも、織田信長により信安が敗れると、浪人となりその後信長に仕えるようになる。信長の命により豊臣秀吉に従い各地を転戦する。秀吉に従い功をあげたことにより出世した。秀吉の信任を受けており三中老の一人に任命され五大老、五奉行の仲裁役として機能した。関ヶ原の戦いでは東軍に属した。

本願寺 顕如 (ホンガンジ ケンニョ)1592年

出身地摂津国?。浄土真宗本願寺派11代宗主。父証如が重篤となり、12歳にして得度し、本願寺を継いだ。(父証如も10歳で父実如がなくなり、跡を継いだ)外交においても巧みで六角家や甲斐武田家と政略結婚を結び、本願寺の権力と交えながら、多くの国々と友好関係を築いた。織田信長が勢力を拡大するようになると信長と敵対し信長包囲網を形成し対抗した。しかし、武田信玄が亡くなり、浅井、朝倉が滅ぼされ毛利水軍も九鬼嘉隆率いる鉄甲船により撃退され、状況が不利になったことにともない降伏する。信長が亡くなり、秀吉と友好関係を一時築くものの、勢力拡大とはならず、権力は縮小されていき、失意のまま亡くなった。

 

1543年生まれの武将 02

滝川 雄利 (タキガワ カツトシ)1610年

出身地伊勢国。北畠→織田→豊臣→徳川。木造家の子であったが、織田家と北畠家の戦いで滝川一益から気に入られ、滝川の名を貰う。織田信雄の家老となり小牧長久手の戦いでも秀吉の調略を受けたが、拒否し信雄を支えた。信雄もそれに応え、家中一の高禄を与えられている。関ヶ原では西軍についたため、改易されたが、後に常陸国片野にて大名に復帰している。

里見 義頼 (サトミ ヨシヨリ)1587年

出身地安房国。里見家7代当主。前当主義弘の子であり後継とされていた梅王丸(義重)との家督争いを経て里見家当主となる。里見家が一時、北条家との友好関係の構築を図るも、やがて破綻し関係は悪化していく。その中で戦だけではなく武田家、佐竹家との同盟や豊臣秀吉との友好関係の構築もを図り成果をあげ家を守った。

真田 昌輝 (サナダ マサテル)1575年

出身地信濃国。武田家家臣。真田幸隆の三男。幼くして武田信玄に近侍しており、各地を転戦した。特に北条家を相手にした本格的な山岳戦として有名な三増峠の戦いでは、内藤昌豊とともに殿を引き受け見事に勤め上げた。長篠の戦いでは奮闘するものの、兄信綱と共に討死する。

1543年生まれの武将 01

一条 兼定 (イチジョウ カネサダ)1585年

出身地土佐国。五摂家の一条家の分家の一つで、土佐一条家5代当主。キリスト教の洗礼を受けている。長宗我部元親の台頭により弱体して行き、滅亡した。側室に大友宗麟の娘がいることもあり、豊後国に逃れた。正室宇都宮家の縁や大友家の力を借りて土佐を取り戻そうとするも成功しなかった。

織田 信包 (オダ ノブカネ)1614年

出身地尾張国。織田→豊臣。織田信秀の子で、信長の弟。信長の命により伊勢長野氏に養子入りするも、織田家に戻る。本能寺の変で信長が亡くなると豊臣秀吉に仕えるようになり、伊勢国にて15万石を与えられた。その後減封や関ケ原の戦いで西軍につくなどはあったが、大名として残った。

香宗我部 親泰 (コウソカベ チカヤス)1593年

出身地土佐国。長宗我部家家臣。長宗我部国親の三男で元親、吉良親貞の弟で香宗我部家の養子となる。兄元親と共に各地を転戦し、また外交面においても大きく活躍した。武勇に秀でた兄吉良親貞が早くに亡くなっていたこともあり、文武にわたって活躍したが、元親より6年も早く亡くなった。元親が戸次川の戦いで長男信親を失ってから精彩を欠いており、親泰の死によりいよいよ歯止めがかからなくなり、長宗我部家のより衰退していった。