1542年生まれの武将 04

保科 正直 (ホシナ マサナオ)1601年

出身地信濃国。武田→北条→徳川。武田家に仕え甲州征伐の際も籠城し抵抗したが脱出。上野国の弟内藤昌月を頼った。本能寺の変が起こると、初めは北条家につき戦ったが、徳川家に寝返った。武に長けており、各地を転戦し功があった。

三好 義興 (ミヨシ ヨシオキ)1563年

出身地摂津国?。三好長慶の長男であり後継として期待されていたが、病により22歳にしてこの世を去った。文武ともに優れており、父長慶は義興の死をおおいに悲しみ、他の身内の死もあり精神的に病み、天下人としての器量も失っていった。

渡辺 守綱 (ワタナベ モリツナ)1620年

出身地三河国。徳川家家臣。槍の名手として知られ、槍半蔵として恐れられた。三河一向一揆では一時、徳川家の敵となったがのちに本田正信と同じく帰参する。徳川家の多くの戦いで活躍した。晩年は尾張藩主、義直の附家老となり徳川家に尽くした。

1542年生まれの武将 03

服部 正成 (ハットリ マサナリ)1597年

出身地三河国。徳川家家臣。服部半蔵として知られる。伊賀忍者としての知名度が高いが父保長が伊賀忍者の出自であり、徳川家伊賀甲賀忍者との協力関係を築く橋渡しをしたが忍びではないとされている。本能寺の変では堺に滞在していた徳川家康を三河に帰すことに貢献し、その後も伊賀甲賀のまとめ役をしながら、小牧長久手の戦い、小田原征伐と功をあげた。

林崎 重信 (ハヤシザキ シゲノブ)1621年

出身地出羽国。林崎甚助として知られる。居合術、神夢想林崎流の流祖。最上家の楯岡城で東根刑部大夫より武術を学んだ。また、塚原卜伝からも鹿島新當流を学んだともいわれる。父の敵討ちを果たしたのちは諸国を放浪しながら武術の指南をしていたが、加藤清正に招かれ、加藤家にて指南をするようのなったが晩年は諸国放浪の末、出羽に戻ったともいわれる。

平岩 親吉 (ヒライワ チカヨシ)1612年

出身地三河国。徳川家家臣。徳川家康の今川家の人質時代から付き従う。家康の信頼も厚く、長男信康の傅役となる。長年の功もあり家康が関東に転封された際は厩橋に領地を与えられた。関ヶ原の戦いのちは甲府に領地を与えられ、義直が甲斐に移ると幼い徳川義直に代わり甲斐国を治め、義直が尾張藩主となるとそれに付き従い犬山に移った。非常に実直な将として知られ、長男信康の傅役、義直の附家老になったことからも伺える。

1542年生まれの武将 02

九鬼 嘉隆 (クキ ヨシタカ)1600年

出身地志摩国。織田(信長)→織田(信雄)→豊臣。滝川一益の仲介で織田家に仕えるようになり、主に水軍を率いた。毛利水軍に織田水軍が大敗したのを受けて焙烙玉や火矢への対応として鉄甲船を建造し毛利水軍を破った。信長の死後は信雄に仕えるも、小牧長久手の戦いで豊臣家に寝返った。その後も水軍を駆使して活躍したが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、自害した。また、息子守隆は東軍についたため九鬼家は残った。

九戸 実親 (クノヘ サネチカ)1591年

出身地陸奥国。南部家家臣。石川信直(南部信直)との家督争いに敗れる。その後、九戸政実の乱で兄と共に殺された。

中川 清秀 (ナカガワ キヨヒデ)1583年

出身地摂津国。摂津池田→織田→豊臣。荒木村重同様、摂津池田家の家臣であったが織田家に仕えるようになり、荒木村重に従った。荒木村重が織田家を裏切ると最初は村重に従い戦ったが、降伏し織田家の将として各地を転戦する。本能寺の変後は豊臣家に仕えたが、賤ヶ岳の戦いで討死した。

成田 氏長 (ナリタ ウジナガ)1596年

出身地武蔵国。上杉(謙信)→北条→蒲生→豊臣。武蔵国忍城城主。上杉、北条の境目であったため立場として安定していなかったが、上杉北条間で同盟が結ばれると北条家家臣となった。小田原征伐の後、北条家の滅亡に伴い、蒲生氏郷に仕えるようになるが、娘甲斐姫が秀吉の側室になった縁により大名になる。

 

1542年生まれの武将 01

太田 氏資 (オオタ ウジスケ)1567年

出身地武蔵国。扇谷上杉→北条。太田資正の長男。父資正が生涯にわたって反北条であったのとは反対に正室に北条氏康の娘を娶り、北条家の家臣として戦った。父資正の影響力も大きく、資正が次男梶原政景に家督を継がせようとしたこともあり、一時は出家までしたが還俗し、岩付城城主となった。里見家との戦い(三船山の戦い)で殿を引き受け討死した。

岡部 正綱 (オカベ マサツナ)1584年

出身地駿河国。今川→武田→徳川。今川家に仕え、桶狭間の戦いで義元が討ち取られた後も氏真をよく支えたが、今川家の滅亡後は武田家に仕えた。武田家臣になってからも戦で功を重ねたが、武田家衰退しが遠江や駿河の支配を維持できなくなってからは徳川家康の家臣となった。家康が今川家の人質であった頃から、友好関係があったとされている。

兼松 正吉 (カネマツ マサヨシ)1627年

出身地尾張国。織田(信長)→織田(信雄)→豊臣→徳川。信長の馬廻衆として活躍したが、本能寺の変後は信雄に仕える。信雄が豊臣家の家臣となると秀吉に仕えるようになった。関ケ原の戦いでは東軍に属し、その後松平忠吉に従うも忠吉が病死したことにより尾張藩初代藩主徳川義直の家臣となり尾張にて過ごした。