1541年生まれの武将 02

毛利 秀頼 (モウリ ヒデヨリ)1593年

出身地尾張国。織田→豊臣。尾張守護斯波義統の子。織田家赤母衣衆出身。赤母衣衆ができる以前より織田家に仕え桶狭間の戦いで活躍。その後も織田家主要な戦いに転戦した。武田家滅亡後に、信濃飯田城にて城主になるも本能寺の変により城は放棄し尾張へ戻った。その後は豊臣秀吉に仕え、小牧長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐にも参戦し、再び信濃飯田城城主となった。

千葉 親胤 (チバ チカタネ)1557年

出身地下総国。千葉家26代当主。6歳にして家督を継ぐ。親北条の家臣が家中の実権を握っており、元服後も力を持ち続けたことに不満を持ち、反北条の勢力と友好関係を築くも、北条より攻められ降伏。幽閉の末暗殺された。

水野 忠重 (ミズノ タダシゲ)1600年

出身地尾張国。織田→徳川→織田(信忠→信雄)→徳川。姉、於大の方が松平広忠の正室でかつ家康を生んだため、徳川家康の実の叔父にあたる。織田家に仕える兄信元に従うも、関係の悪化から徳川家に仕える。1580年に謀反を疑われ織田家に自害させられた兄信元が冤罪であることがわかると、信長の命により水野家の家督を継ぎ織田家の家臣となり、信忠に付き従った。本能寺の変が起こり、信忠が亡くなると織田信雄に仕えるようになった。信雄が秀吉の臣下になった際は、信雄ではなく秀吉の直臣となり、長年の武功もあいまって伊勢神戸城、のちに旧領三河刈谷城を治めた。

1541年生まれの武将 01

足利 義氏 (アシカガ ヨシウジ)1583年

出身地下総国。北条家家臣。第5代古河公方として形式的には古河公方を継いだが、父晴氏が川越城の戦いにより敗北、幽閉されていたこともあり基本的に北条家の傀儡であった。北条家に従い、家は続くかと思われたが、長男が早くに亡くなっていたため、家の断絶の危機を迎えた。豊臣秀吉の仲介等もあり氏姫が分家である足利頼氏と婚姻、後継者も生まれたことにより喜連川として命脈を保った。

穴山 信君 (アナヤマ ノブタダ)1582年

出身地甲斐国。武田→織田(徳川)。武田の一門衆。父信友と共に武田家から娘を娶り正室としている。駿河侵攻時の調略やその後の統治において活躍をしている。甲州征伐においては早い段階で織田(徳川)と接触し甲斐国と武田家の継承を条件に寝返った。本能寺の変時には家康と共に堺におり、その報せを知り畿内からの脱出をはかるも、落ち武者狩りあるいは一揆勢により殺されたとされている。

吉良 親貞 (キラ チカサダ)1576年

出身地土佐国。長宗我部家家臣。長宗我部国親の次男で武勇に優れ、よく元親を助けた。吉良家に婿養子として入り家督を継いだ。五摂家一条家との戦いでは特に武功が多く、元親に代わり総大将を務めることもあった。しかし、35歳の若さで病死し、これにより長宗我部家の領土拡大が大きく遅れることになった。