1539年生まれの武将 02

鳥居 元忠 (トリイ モトタダ)1600年

出身地三河国。徳川家家臣。家康が今川家の人質としてあった頃からの家臣。兄忠宗が討死したのち鳥居家の家督を継ぐ。徳川家の主要な戦を転戦した。会津征伐時に伏見城を任され関ケ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで籠城戦を繰り広げた。約20倍を兵力を相手に10日以上耐え、西軍の展開を遅らせた。討死するに至ったが、その忠義の心は「三河武士の鑑」と呼ばれた。

前田 玄以 (マエダ ゲンイ)1602年

出身地美濃国。織田→豊臣→徳川。織田信長に評価され家臣となる。信忠に従っていたが、本能寺の変があり死ぬと信雄に仕えた。京都所司代に任命され京の治安維持に尽力。やがて豊臣秀吉に仕えるようになり五奉行の一人となった。関ケ原の戦いでは西軍につき大坂城をにあったが、西軍側の情報を徳川家に流していたことや、京都所司代としての経験等もあり、京に一定の影響力(人脈等)もあると考えられ丹波亀山の所領を安堵された。

 

1539年生まれの武将 01

安東 愛季 (アンドウ チカスエ)1587年

出身地出羽国。安東家当主。長らく分裂していた安東家をまとめ、勢力を拡大。南部家、大宝寺家などと争った。また、交易、商業に関しても積極的で東北屈指の港湾都市を作り上げた。

小山田 信茂 (オヤマダ ノブシゲ)1582年

出身地甲斐国。武田家家臣。甲斐の有力国人として武田家に従う。小山田信有の死後、家督を継いだ。川中島の戦い、駿河侵攻、長篠の戦いなどにも参戦している。しかし、甲州征伐により、勝頼が頼ってきた際は拒絶し、織田家への臣従を謀るも武田家への不忠を理由に処刑された。

長宗我部 元親 (チョウソカベ モトチカ)1599年

出身地土佐国。長宗我部家21代当主。長宗我部国親の長男として生まれ、若き日は「姫若子」と呼ばれ初陣で功をあげ、その勇猛さから鬼若子と呼ばれ、土佐の国人から土佐一国をまとめ、四国の大半を統べるようになると、出来人と呼ばれ評価された。敵対勢力である本山家、大恩ある一条家を降した。織田家が力を強めると、時勢を読み、長男千雄丸の烏帽子親を信長に依頼することで友好関係を築いた。豊臣秀吉が信長亡き後、勢力を拡大していくも反抗し敗れ土佐一国への大幅な減封となる。その後、九州征伐に先んじて、大友家への援軍として参戦するも、戸次川の戦いで長男信親が討死にする程の惨敗をする。元親の失望はあまりに大きく、以前とは人が変わってしまったと言われる。