1538年生まれの武将 02

百武 賢兼 (ヒャクタケ トモカネ)1584年

出身地肥前国。龍造寺家家臣。龍造寺家の主要な戦を転戦し当主龍造寺隆信より武勇を評価された。百人並みの武勇を有すると評価され百武の姓を名乗るようになった。龍造寺四天王の一人。沖田畷の戦いで隆信と共に討死した。

北条 氏政 (ホウジョウ ウジマサ)1590年

出身地相模国。後北条家四代当主。氏康の次男として生まれるも長男が、幼くして亡くなったために跡継ぎとなる。正室に武田信玄の娘を迎えている。家督を譲られ氏康も老いて北条家における実権を握った後は、一度は関係が悪化した武田家との関係の修復を図った。また、里見家や佐竹家と争いながらも堅実に領土を拡大していった。武田家が織田家と対立し滅亡したのに反して信長が死ぬ前の時期では織田家に臣従していたが、信長が死んだのち、北条家は豊臣秀吉と対立した。この時すでに家督は氏直に譲っていたが、依然として高い影響力を持っており、主戦派として小田原征伐を招いてしまい、秀吉から切腹を命じられ、北条家が滅亡するに至った。

細川 真之 (ホソカワ マサユキ)1582年
出身地阿波国。阿波細川家10代当主。父、持隆が三好実休(義賢)に殺されると実休により傀儡として当主となる。実休(死後はその子長治)が兄三好長慶と連携して細川家を三好家の勢力として組み込もうとされるも反抗した。長宗我部の力を借り、三好長治を討ち倒したが、その後も織田家、長宗我部家の争いの狭間にあり、戦に敗れ自害したと言われる。

本多 正信 (ホンダ マサノブ)1616年
出身地三河国。徳川家→松永家→徳川家。徳川家に仕えるも三河一向一揆では家康と敵対し、鎮圧された後は大和国の松永久秀に仕えた。諸国放浪を経て徳川家に帰参する。その後も家康の参謀として近くにて仕え交渉事などで多くの功をたてた。家康からの信頼も厚く、友のように言われていた。

 

1538年生まれの武将 01

今川 氏真 (イマガワ ウジザネ)1615年

出身地駿河国。今川家12代当主。今川義元の長男として生まれる。桶狭間の戦いで父義元が討死する。勢力維持に努めようとするも、徳川家康(当時は松平家康)の独立、武田家の方針転換(徳川家、織田家との関係を構築しての南下政策等)により、領地を追われることとなる。その後北条家、徳川家、京などで暮らした。歌道や蹴鞠など一流で、一流の文化人でもあった。

佐武 義昌 (サタケ ヨシマサ)1620年

出身地紀伊国。本山→雑賀衆→豊臣(浅野)。若くして鉄砲を修め、根来寺に入り仏門における修行をする。一時、土佐の本山家に仕えるも雑賀に戻り織田家と徹底抗戦する。秀吉の治世の中でも、初めは反抗したが、後に当代きっての鉄砲の名手でもある浅野幸長に仕えるようになった。

武田 義信 (タケダ ヨシノブ)1567年

出身地甲斐国。武田信玄の長男。信濃攻めや上杉謙信との川中島の戦いでも大いに活躍したが、今川義元亡き後の今川家に対する方針で信玄と対立し、義信側の信玄暗殺計画が露見すると幽閉され、病死あるいは自害したとされる。

鍋島 直茂 (ナベシマ ナオシゲ)1618年

出身地肥前国。龍造寺→豊臣→徳川。龍造寺家当主隆信の従弟かつ、義弟として龍造寺家拡大に尽力する。沖田畷の戦いで隆信が討死にした際は当主が討死するという状況下にありながら有利な条件で和睦した。秀吉による九州征伐が始まると秀吉に従い、立花宗茂らと共に先陣を切って戦った。関ヶ原の戦いでは息子勝茂は西軍についたが、直茂は東軍についた。直茂の活躍により、主家であった龍造寺家より力を持つようになり関係は悪化をした。また、家康より鍋島家が肥前佐賀を治めることを認められた。