1537年生まれの武将 03

島津 歳久 (シマヅ トシヒサ)1592年

出身地薩摩国。島津貴久の三男として島津家をよく支えた。豊臣秀吉による九州征伐に対し評定の中で秀吉の実力を高く理解しており、義久、義弘、家久の中でただ一人和睦を主張するも受け入れられることはなかった。梅北一揆の際、秀吉から一揆の首謀者の一人とみなされ、兄義久の軍により討死した。実際は謀反の心はなく、一揆に加担していなかったと言われる。

清水 宗治 (シミズ ムネハル)1582年

出身地備中国。三村家(石川)→毛利家。初めは三村家家臣石川家に仕えていたと言われるが、三村家が毛利家と対立した際、毛利家家臣となったと言われる。主に小早川隆景の元で働き、高く評価された。織田家による中国攻めにあたり、居城備中高松城にて籠城したが、黒田官兵衛が案による水攻めにより降伏(この直前に本能寺の変が起こる)。責任をとり、自害した。

下間 頼廉 (シモツマ ライレン)1626年

出身地摂津国?浄土真宗石山本願寺所属。浄土真宗本願寺派宗主顕如の元で織田信長と対抗したが石山合戦が終わり、石山本願寺を去った後は特定の勢力につかず、むしろ全国の一向宗徒の織田家との対立を辞めるよう説いた。信長の死後は、一向宗の有力人物として他方から軍を提供して欲しいと依頼されたが中立を近づいた。天下の趨勢が豊臣秀吉に傾くと、秀吉に従い本願寺町奉行に任じられた。

1537年生まれの武将 02

奥平 定能 (オクダイラ サダヨシ)1599年

出身地三河国。今川→徳川→武田→徳川。奥三河の国人。幼少期は今川義元への人質として生活する。今川義元が桶狭間の戦いで死に、今川家の求心力が低下した後は徳川家康の家臣となる。武田信玄の三河侵攻で、一時武田家に仕えるようになるも、その後、再度徳川家に臣従した。

加藤 光泰 (カトウ ミツヤス)1593年

出身地美濃国。斎藤→織田(豊臣)。初めは美濃斎藤家に仕えるも斎藤家が滅んだ後は近江国にて浪人となるも豊臣秀吉の家臣となる。浅井家との戦いや、三木城、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参戦し、功をあげ甲斐国24万石を与えられるようになった。

神代 長良 (クマシロ ナガヨシ)1581年

出身地肥前国。少弐→大友→龍造寺。主家たる少弐家が大内、龍造寺勢力に囲まれ衰退していく。長良自身も龍造寺家に城を奪われ、大友家を頼り、龍造寺と戦うも、後に龍造寺家家臣となる。

三枝 昌貞 (サエグサ マササダ)1575年

出身地甲斐国。武田家家臣。武田の赤備えの山県昌景の娘を正室に迎える。主に山県の寄騎として武田家の戦を転戦する。長篠の戦いにおいて討死する。

真田 信綱 (サナダ ノブツナ)1575年

出身地信濃国。武田家家臣。父幸隆が信濃の国人であったが武田信玄に仕えるようになると幼くして信玄の近侍として働いた。武勇も高く、日本屈指の山岳戦である三増峠の戦いでは殿をつとめ、三方ヶ原の戦いでも活躍した。長篠の戦いでも奮戦をし敵陣まで迫るも討死する。家督は弟昌幸が継いだ。

1537年生まれの武将 01

赤松 義祐 (アカマツ ヨシスケ)1576年

出身地播磨国。12代赤松家当主。四職(京極、一色、山名、赤松)の一家。父晴政との対立により家中が疲弊。晴政側の赤松政秀とは晴政の死後も険悪な関係が続き、一時は滅亡危機に陥ったが、織田家に臣従することにより、生き延びた。

足利 義昭 (アシカガ ヨシアキ)1597年

出身地山城国。足利22代当主。室町幕府15代征夷大将軍。慣しとして5歳の時に出家し大和国、興福寺にて仏門に入る。しかし、永禄の変で、兄義輝が暗殺された後、還俗する。織田信長の協力を得て京に戻り、安定した日々を過ごすも、次第に関係が悪化。浅井、朝倉をはじめ本願寺、武田、上杉、毛利らと組み織田包囲網を形成し対抗するも敗北。京から追放され毛利家に逃れる。信長の死後は京に戻った。

板野岡 江雪斎 (イタベオカ コウセツサイ)1609年

出身地相模国?。北条→豊臣→徳川。北条氏政の右筆にして、評定衆の一人。北条家における外交で直接的な交渉役として活躍した。北条家が滅びると豊臣家に仕え、秀吉が死ぬと徳川家康に仕えた。その交渉力は高く、北条と真田の沼田領の問題で秀吉に弁明をしに来た際は高い評価を受け、秀吉自ら茶を立てたと言われている。

岡本 頼氏 (オカモト ヨリウジ)1606年

出身地肥後国。肥後の大名相良家の家臣。相良家の戦で数々の武功を挙げている。相良家が島津家の家臣となると、島津義弘に評価され、武功を挙げた。槍に長けてるだけでなく歌道にも明るく、文武両道の将であったと言われる。