1536年生まれの武将 03

北条 氏繁 (ホウジョウ ウジシゲ)1578年

出身地相模国。北条家家臣。地黄八幡と恐れられた北条綱成の嫡男で家督を相続。父綱成が2代当主北条氏綱の娘を正室にしたのと同様に3代氏康の娘を正室に迎えた。玉縄城での籠城戦や里見との合戦(第二次国府台)などで活躍した。また東北地方への外交も担っており、高い交渉力があったと言われる。

真柄 直隆 (マガラ ナオタカ)1570年

出身地越前国。朝倉家家臣。越前国の有力国人の1人。姉川の戦いでは朝倉家は敗れるものの、愛刀千代鶴国安を手に朝倉軍と対峙していた徳川軍の陣深くまで切り込んだものの、討死する。

三沢 為清 (ミサワ タメキヨ)1588年

出身地出雲国。尼子→大内→毛利。出雲国の国人で、尼子、大内の二代勢力に挟まれていのたが上手く立ち回った。その後、同様に国人でありながら、勢力を拡大していった、毛利元就に従うようになり、主に吉川元春の軍に編成された。

三好 政勝 (ミヨシ マサカツ)1632年

出身地摂津国?。細川→三好→織田→豊臣→徳川。三好家傍流の三好政長の子。織田家の京、畿内への進出に反発するも後に降伏。本能寺の変後は豊臣家に仕えた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川秀忠に追従し、大坂の陣においても功があったといわれる。最終的に秀忠の御咄衆にとなった。

1536年生まれの武将 02

九戸 政実 (クノヘ マサザネ)1591年

出身地陸中国。南部家家臣。南部24代当主、南部晴政の領土拡大に大きく貢献した。しかし、南部晴政が死に、後継者である晴継が暗殺されると、25代当主となる南部信直と対立。この対立は根深く、奥州仕置の後であるにも関わらず挙兵する。信直は南部家のみで対処することは難しいと考えて、秀吉に九戸家討伐の要請をする。10倍以上の兵に囲まれ、間もなく降伏。斬首される。

佐々 成政 (サッサ ナリマサ)1588年

出身地尾張国。織田→柴田→豊臣。織田家精鋭の黒母衣衆に名を連ねる。鉄砲の運用に長けており、織田家の主たる合戦に参戦。織田家が越前国を得た後は柴田勝家の与力として活躍する。本能寺の変後は、上杉家に対する抑えとして働いた。賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると降伏するも、小牧・長久手の戦いでは徳川家康、織田信雄側に立ち、豊臣家と戦い、再度降伏し、大幅な減封を受け入れる。後に肥後一国を任されるも肥後国人一揆が起こり、この責任をとり切腹した。

南光坊 天海 (ナンコウボウ テンカイ)1643年

出身地陸奥国。天台宗の僧にして、家康の側近。各地の寺々を転々とし、学を高め、武田信玄、蘆名盛氏ら名将に評価され、一時は彼らの領地にて定住する。その後関東の寺で住職を務め、徳川家康の側近相談役的立場となる。

1536年生まれの武将 01

足利 義輝 (アシカガ ヨシテル)1565年

出身地山城国。足利20代当主。室町幕府13代征夷大将軍。11歳にして将軍職を継いだ。幕府の権威の回復に努め、一定の成果を上げながらも、三好長逸、三好政勝、岩成友通ら三好三人衆と皆松永久秀の子、松永久通らの軍勢に囲まれて、憤死した。

池田 恒興 (イケダ ツネオキ)1584年

出身地尾張国。織田家家臣。犬山城、兵庫城、大垣城城主。幼い頃から織田家に仕えた。信長に従い、犬山城を拠点として、各地を転戦。謀反を起こした荒木村重を破ると、その領地(摂津)を任された。本能寺の変直後は、秀吉と合流し山崎の戦いにても活躍する。清洲会議でも秀吉の側に立った。賤ヶ岳の戦いには参戦はしていないが、その後、大垣に転封。小牧・長久手の戦いでは、徳川家康を相手に戦うも、嫡子元助、婿森長可と共に討死した。

猪苗代 盛国 (イナワシロ モリクニ)1590年

出身地陸奥国。蘆名→伊達。猪苗代城城主。蘆名盛氏が死に、蘆名家の力が日に日に衰えると、居城猪苗代城ごと伊達家に寝返り、蘆名家が滅ぶ大きな要因となった。

城井 鎮房 (キイ シゲフサ)1588年

出身地豊前国。大内→大友→島津→豊臣。城井谷城城主。父長房から、若くして領国を任された。大寧寺の変で大内義隆が倒れると、大友家に仕えるようになり、正室に大友宗麟の妹を迎えるも、島津家の勢力拡大に伴い、島津家に仕えるようになる。九州征伐により、今度は豊臣家に仕える。その後、伊予への転封と家宝の引渡し等の要求を拒否し、城井谷城で挙兵するも降伏する。一時は豊臣家家臣黒田孝高、長政に従うも、警戒され酒宴と言われ呼び出されたところを暗殺された。