1535年生まれの武将

荒木 村重 (アラキ ムラシゲ)1586年

出身地摂津国。池田家→織田家→豊臣家。摂津国池田家の一家臣から、織田信長に気に入られ、取り立てられた後、畿内の合戦にて活躍する。摂津一国を与えられ有岡(伊丹)城を拠点として畿内、播磨および中国地方へと睨みを利かせたが、突如織田家を裏切る。幾度もの説得を断ったあげく、家臣、一族をおいても逃亡し毛利家に逃げ難を逃れる。信長の死後は茶人として名を馳せた。なお、裏切りの理由は諸説あり、どれも決定的とは言えない。

肝付 良兼 (キモツキ ヨシカネ)1571年

出身地大隅国。肝付家17代当主。伊東家と同盟関係を結び、島津家に対抗する。成果は出たが、37という若さで、志半ば病死した。

島津 義弘 (シマヅ ヨシヒロ)1619年

出身地薩摩国。島津家17代当主。15代貴久の次男。鬼島津として恐れられた。「九州の桶狭間」と言われる木崎原の戦いでは300の兵で3000の兵を破り、総大将、伊東祐安をはじめ、伊東家の重臣をことごとく討ち取った。1587年豊臣秀吉との合戦においても、奮戦するも、兵力差著しく、兄義久に続き、降伏する。この時、体面として義久が義弘に家督を譲った。朝鮮出兵でも圧倒的な兵力差がありながらも勝利し、圧倒的戦果をあげた。さらに、関ヶ原の戦いで無謀とも思われる、的中突破、通称「島津の退き口」により、戦における名声を決定的なものとした。さらに、その後の外交の成果により、減封もなかった。

丹羽 長秀 (ニワ ナガヒデ)1585年

出身地尾張国。織田家家臣。織田家家中での争いである稲生の戦い以前から、終始織田家に仕える。浅井家佐和山城を落とした際、城主となる。その後、若狭国を与えられ、その後も織田家の主な合戦に参加する。織田家中において柴田勝家と並び、評された。しかし、本能寺の変後は地理的有利にも関わらず、秀吉に遅れをとり、123万石を与えられたが、長秀が死んだ後、子、長重は若狭国15万石へと減封された。織田家において、木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間という風評があり、米五郎左が長秀にあたり、米のように欠くことができない存在と評された。