1545年生まれの武将 01

浅井 長政 (アザイ ナガマサ)1573年

出身地近江国。浅井家3代当主。浅井久政の長男。父久政が六角家に対し従属的かつ独立および領土拡大において消極策をとっていた。その姿勢に不満を持つ家臣らを味方につけ野良田の戦いで六角家を破り実力をつけ独立。妻に織田信長の妹のお市の方を貰い、信長の上洛を助けた。信長の信頼も高かったが、祖父亮政の時代より友好関係のある朝倉家に信長が進軍したのをきっかけに、織田家と対立。姉川の戦い信長包囲網を利用しながら抵抗する。しかし、武田信玄が急死、朝倉家の滅亡により信長包囲網も弱まり、本拠地小谷城にて自害した。

野良田の戦い(1560年)
近江野良田(滋賀県彦根市野良田町、肥田町)で起こったっ合戦。浅井長政兵数11000人。六角義賢25000人。浅井長政はこの戦いの勝利により北近江での浅井家の力を明確にし、六角家との従属関係を解消した

浅井亮政 1491年~1542年 元は北近江国人であったが、北近江守護京極家のお家騒動などによる弱体があり、北近江を支配するようになった。

浅井久政 1526年~1573年 浅井家2代目当主。亮政のあとを継いで浅井家当主になる。しかし、亮政の時代にような勢力を保てず、六角家に従属する形となり、長男、長政により隠居するに至った。

1544年生まれの武将 03

徳山 則秀 (トクヤマ ノリヒデ)1606年

出身地美濃国。斎藤→織田→豊臣(丹羽、前田)→徳川。初めは斎藤家に仕えていたと言われるが、のちに織田家に仕えて、柴田勝家の元で活躍した。豊臣秀吉に勝家が敗れると丹羽長秀に、丹羽家減封により、前田家に仕えるようになった。徳川家康に仕えた。

延沢 満延 (ノベサワ ミツノブ)1591年

出身地出羽国。最上家家臣。初めは最上八楯の天童家に仕え、高い武勇を誇っていたが、最上義光の調略により義光の家臣となった。

山田 有信 (ヤマダ アリノブ)1609年

出身地薩摩国。島津家家臣。島津家の家老。島津家15代当主貴久に近侍した。伊東家との戦いや耳川の戦い、九州征伐時の籠城などでも活躍した。忠誠心も高く、九州征伐時の籠城では島津義久がすでに降伏しており、義久からの降伏を勧められて、初めて降伏するに至った。

山田 宗昌 (ヤマダ ムネマサ)1620年

出身地日向国。伊東家家臣。北郷家や島津(豊州)との戦いで武功を上げた。また、主君が伊予国に逃れた際も九州に残り、大友家家臣佐伯惟定の客分武将として活躍し、島津の軍勢を退けたという。その後島津家や大友家からの高禄での誘いを断り、豊臣秀吉により伊東家の大名復帰が叶うと、家臣として働いた。

島津家久からも高く評価されており、恐れられたとの話がある。

1544年生まれの武将 02

伊達 輝宗 (ダテ テルムネ)1585年

出身地陸奥国。伊達家16代当主。伊達晴宗の次男。祖父稙宗により拡大した伊達家であったが、稙宗、晴宗との父子での対立から天文の乱が起こり、最上、相馬といった一度は従属させた勢力が力を持ち奥州内での権威は落ちていた。稙宗、晴宗が争ったように、輝宗は隠居した晴宗が実権を掌握していることに不満があり、対立したが家中を掌握。上杉、蘆名、佐竹等周辺の大名だけでなく織田、北条といった大名とも精力的に外交関係をもち、利用しながら勢力拡大を、行なった。祖父稙宗に匹敵する勢力にもなり、大きな影響力をもったが、伊達家二代に渡る教訓からか早々に隠居した。その後畠山義継の謀にはまり、人質とされたが、生き恥をさらすことを良しとせず、家臣に自分もろとも撃つ様にいい放ち、畠山吉継らとともに亡くなった。

東禅寺 義長 (トウゼンジ ヨシナガ)1544年

出身地出羽国。大宝寺→最上。大宝寺義氏より信を得て義氏の娘を正室として迎えるも、次第に対立し義氏を暗殺した。最上家を後ろ盾とし庄内地方を治めたが、上杉家の支援を受けた大宝寺義勝と十五里ヶ原の戦いで戦うも、軍の中に内通者がいたこともあり、敗れ討死した。

 

 

 

 

1544年生まれの武将 01

小貫 頼久 (オヌキ ヨリヒサ)1603年

出身地常陸国。佐竹家家臣。主家佐竹家が対北条の姿勢を貫く中で外交面で大きく活躍し、上杉謙信、武田信玄などと交渉した。関ヶ原の戦いの後、佐竹家が出羽国久保田へと減封されるも、付き従った。

相良 義陽 (サガラ ヨシヒ)1581年

出身地肥後国。相良家18代当主。相良晴広の長男。肥後国南部の人吉城を拠点とし、島津、大友のといった実力者を相手に上手く立ち回った。島津家の勢力拡大にともない島津家に従うようになった。島津家からの要請により不戦を約していた阿蘇家領地に侵入するも甲斐親直の奇襲により討死。その死は敵味方共に惜しまれたと言われる。

竹中 重治 (タケナカ シゲハル)1579年

出身地美濃国。斎藤→織田(豊臣)。黒田如水と並び評される、豊臣秀吉の軍師。初めは斎藤家に仕えるも、主君龍興との不仲から出奔。浪人中、秀吉から三顧の礼で向かい入れられた。生きている間は秀吉の多くの戦いに参戦し勝利に導いたと言われる。稲葉山城を少ない人数で奪い取ったという話や黒田如水が荒木村重のこもる有岡城に説得に行ったが帰ってこず、信長から裏切ったとみなされ、人質を殺すように言われるも、裏切ったことを信じず密かに匿ったという話が残っている。

1543年生まれの武将 03

田北 鎮周 (タキタ シゲカネ)1578年

出身地豊後国。大友家家臣。大友家の将として転戦する。大友家の衰退の決定にした耳川の戦いでは、敵軍内に突撃し陣が伸び切ったところを反撃にあい大敗。討死した。

堀尾 吉晴 (ホリオ ヨシハル)1611年

出身地尾張国。織田→豊臣→徳川。岩倉城城主織田信安に仕えるも、織田信長により信安が敗れると、浪人となりその後信長に仕えるようになる。信長の命により豊臣秀吉に従い各地を転戦する。秀吉に従い功をあげたことにより出世した。秀吉の信任を受けており三中老の一人に任命され五大老、五奉行の仲裁役として機能した。関ヶ原の戦いでは東軍に属した。

本願寺 顕如 (ホンガンジ ケンニョ)1592年

出身地摂津国?。浄土真宗本願寺派11代宗主。父証如が重篤となり、12歳にして得度し、本願寺を継いだ。(父証如も10歳で父実如がなくなり、跡を継いだ)外交においても巧みで六角家や甲斐武田家と政略結婚を結び、本願寺の権力と交えながら、多くの国々と友好関係を築いた。織田信長が勢力を拡大するようになると信長と敵対し信長包囲網を形成し対抗した。しかし、武田信玄が亡くなり、浅井、朝倉が滅ぼされ毛利水軍も九鬼嘉隆率いる鉄甲船により撃退され、状況が不利になったことにともない降伏する。信長が亡くなり、秀吉と友好関係を一時築くものの、勢力拡大とはならず、権力は縮小されていき、失意のまま亡くなった。

 

1543年生まれの武将 02

滝川 雄利 (タキガワ カツトシ)1610年

出身地伊勢国。北畠→織田→豊臣→徳川。木造家の子であったが、織田家と北畠家の戦いで滝川一益から気に入られ、滝川の名を貰う。織田信雄の家老となり小牧長久手の戦いでも秀吉の調略を受けたが、拒否し信雄を支えた。信雄もそれに応え、家中一の高禄を与えられている。関ヶ原では西軍についたため、改易されたが、後に常陸国片野にて大名に復帰している。

里見 義頼 (サトミ ヨシヨリ)1587年

出身地安房国。里見家7代当主。前当主義弘の子であり後継とされていた梅王丸(義重)との家督争いを経て里見家当主となる。里見家が一時、北条家との友好関係の構築を図るも、やがて破綻し関係は悪化していく。その中で戦だけではなく武田家、佐竹家との同盟や豊臣秀吉との友好関係の構築もを図り成果をあげ家を守った。

真田 昌輝 (サナダ マサテル)1575年

出身地信濃国。武田家家臣。真田幸隆の三男。幼くして武田信玄に近侍しており、各地を転戦した。特に北条家を相手にした本格的な山岳戦として有名な三増峠の戦いでは、内藤昌豊とともに殿を引き受け見事に勤め上げた。長篠の戦いでは奮闘するものの、兄信綱と共に討死する。

1543年生まれの武将 01

一条 兼定 (イチジョウ カネサダ)1585年

出身地土佐国。五摂家の一条家の分家の一つで、土佐一条家5代当主。キリスト教の洗礼を受けている。長宗我部元親の台頭により弱体して行き、滅亡した。側室に大友宗麟の娘がいることもあり、豊後国に逃れた。正室宇都宮家の縁や大友家の力を借りて土佐を取り戻そうとするも成功しなかった。

織田 信包 (オダ ノブカネ)1614年

出身地尾張国。織田→豊臣。織田信秀の子で、信長の弟。信長の命により伊勢長野氏に養子入りするも、織田家に戻る。本能寺の変で信長が亡くなると豊臣秀吉に仕えるようになり、伊勢国にて15万石を与えられた。その後減封や関ケ原の戦いで西軍につくなどはあったが、大名として残った。

香宗我部 親泰 (コウソカベ チカヤス)1593年

出身地土佐国。長宗我部家家臣。長宗我部国親の三男で元親、吉良親貞の弟で香宗我部家の養子となる。兄元親と共に各地を転戦し、また外交面においても大きく活躍した。武勇に秀でた兄吉良親貞が早くに亡くなっていたこともあり、文武にわたって活躍したが、元親より6年も早く亡くなった。元親が戸次川の戦いで長男信親を失ってから精彩を欠いており、親泰の死によりいよいよ歯止めがかからなくなり、長宗我部家のより衰退していった。

 

1542年生まれの武将 04

保科 正直 (ホシナ マサナオ)1601年

出身地信濃国。武田→北条→徳川。武田家に仕え甲州征伐の際も籠城し抵抗したが脱出。上野国の弟内藤昌月を頼った。本能寺の変が起こると、初めは北条家につき戦ったが、徳川家に寝返った。武に長けており、各地を転戦し功があった。

三好 義興 (ミヨシ ヨシオキ)1563年

出身地摂津国?。三好長慶の長男であり後継として期待されていたが、病により22歳にしてこの世を去った。文武ともに優れており、父長慶は義興の死をおおいに悲しみ、他の身内の死もあり精神的に病み、天下人としての器量も失っていった。

渡辺 守綱 (ワタナベ モリツナ)1620年

出身地三河国。徳川家家臣。槍の名手として知られ、槍半蔵として恐れられた。三河一向一揆では一時、徳川家の敵となったがのちに本田正信と同じく帰参する。徳川家の多くの戦いで活躍した。晩年は尾張藩主、義直の附家老となり徳川家に尽くした。

1542年生まれの武将 03

服部 正成 (ハットリ マサナリ)1597年

出身地三河国。徳川家家臣。服部半蔵として知られる。伊賀忍者としての知名度が高いが父保長が伊賀忍者の出自であり、徳川家伊賀甲賀忍者との協力関係を築く橋渡しをしたが忍びではないとされている。本能寺の変では堺に滞在していた徳川家康を三河に帰すことに貢献し、その後も伊賀甲賀のまとめ役をしながら、小牧長久手の戦い、小田原征伐と功をあげた。

林崎 重信 (ハヤシザキ シゲノブ)1621年

出身地出羽国。林崎甚助として知られる。居合術、神夢想林崎流の流祖。最上家の楯岡城で東根刑部大夫より武術を学んだ。また、塚原卜伝からも鹿島新當流を学んだともいわれる。父の敵討ちを果たしたのちは諸国を放浪しながら武術の指南をしていたが、加藤清正に招かれ、加藤家にて指南をするようのなったが晩年は諸国放浪の末、出羽に戻ったともいわれる。

平岩 親吉 (ヒライワ チカヨシ)1612年

出身地三河国。徳川家家臣。徳川家康の今川家の人質時代から付き従う。家康の信頼も厚く、長男信康の傅役となる。長年の功もあり家康が関東に転封された際は厩橋に領地を与えられた。関ヶ原の戦いのちは甲府に領地を与えられ、義直が甲斐に移ると幼い徳川義直に代わり甲斐国を治め、義直が尾張藩主となるとそれに付き従い犬山に移った。非常に実直な将として知られ、長男信康の傅役、義直の附家老になったことからも伺える。

1542年生まれの武将 02

九鬼 嘉隆 (クキ ヨシタカ)1600年

出身地志摩国。織田(信長)→織田(信雄)→豊臣。滝川一益の仲介で織田家に仕えるようになり、主に水軍を率いた。毛利水軍に織田水軍が大敗したのを受けて焙烙玉や火矢への対応として鉄甲船を建造し毛利水軍を破った。信長の死後は信雄に仕えるも、小牧長久手の戦いで豊臣家に寝返った。その後も水軍を駆使して活躍したが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、自害した。また、息子守隆は東軍についたため九鬼家は残った。

九戸 実親 (クノヘ サネチカ)1591年

出身地陸奥国。南部家家臣。石川信直(南部信直)との家督争いに敗れる。その後、九戸政実の乱で兄と共に殺された。

中川 清秀 (ナカガワ キヨヒデ)1583年

出身地摂津国。摂津池田→織田→豊臣。荒木村重同様、摂津池田家の家臣であったが織田家に仕えるようになり、荒木村重に従った。荒木村重が織田家を裏切ると最初は村重に従い戦ったが、降伏し織田家の将として各地を転戦する。本能寺の変後は豊臣家に仕えたが、賤ヶ岳の戦いで討死した。

成田 氏長 (ナリタ ウジナガ)1596年

出身地武蔵国。上杉(謙信)→北条→蒲生→豊臣。武蔵国忍城城主。上杉、北条の境目であったため立場として安定していなかったが、上杉北条間で同盟が結ばれると北条家家臣となった。小田原征伐の後、北条家の滅亡に伴い、蒲生氏郷に仕えるようになるが、娘甲斐姫が秀吉の側室になった縁により大名になる。