1537年生まれの武将 01

赤松 義祐 (アカマツ ヨシスケ)1576年

出身地播磨国。12代赤松家当主。四職(京極、一色、山名、赤松)の一家。父晴政との対立により家中が疲弊。晴政側の赤松政秀とは晴政の死後も険悪な関係が続き、一時は滅亡危機に陥ったが、織田家に臣従することにより、生き延びた。

足利 義昭 (アシカガ ヨシアキ)1597年

出身地山城国。足利22代当主。室町幕府15代征夷大将軍。慣しとして5歳の時に出家し大和国、興福寺にて仏門に入る。しかし、永禄の変で、兄義輝が暗殺された後、還俗する。織田信長の協力を得て京に戻り、安定した日々を過ごすも、次第に関係が悪化。浅井、朝倉をはじめ本願寺、武田、上杉、毛利らと組み織田包囲網を形成し対抗するも敗北。京から追放され毛利家に逃れる。信長の死後は京に戻った。

板野岡 江雪斎 (イタベオカ コウセツサイ)1609年

出身地相模国?。北条→豊臣→徳川。北条氏政の右筆にして、評定衆の一人。北条家における外交で直接的な交渉役として活躍した。北条家が滅びると豊臣家に仕え、秀吉が死ぬと徳川家康に仕えた。その交渉力は高く、北条と真田の沼田領の問題で秀吉に弁明をしに来た際は高い評価を受け、秀吉自ら茶を立てたと言われている。

岡本 頼氏 (オカモト ヨリウジ)1606年

出身地肥後国。肥後の大名相良家の家臣。相良家の戦で数々の武功を挙げている。相良家が島津家の家臣となると、島津義弘に評価され、武功を挙げた。槍に長けてるだけでなく歌道にも明るく、文武両道の将であったと言われる。