1537年生まれの武将 02

奥平 定能 (オクダイラ サダヨシ)1599年

出身地三河国。今川→徳川→武田→徳川。奥三河の国人。幼少期は今川義元への人質として生活する。今川義元が桶狭間の戦いで死に、今川家の求心力が低下した後は徳川家康の家臣となる。武田信玄の三河侵攻で、一時武田家に仕えるようになるも、その後、再度徳川家に臣従した。

加藤 光泰 (カトウ ミツヤス)1593年

出身地美濃国。斎藤→織田(豊臣)。初めは美濃斎藤家に仕えるも斎藤家が滅んだ後は近江国にて浪人となるも豊臣秀吉の家臣となる。浅井家との戦いや、三木城、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参戦し、功をあげ甲斐国24万石を与えられるようになった。

神代 長良 (クマシロ ナガヨシ)1581年

出身地肥前国。少弐→大友→龍造寺。主家たる少弐家が大内、龍造寺勢力に囲まれ衰退していく。長良自身も龍造寺家に城を奪われ、大友家を頼り、龍造寺と戦うも、後に龍造寺家家臣となる。

三枝 昌貞 (サエグサ マササダ)1575年

出身地甲斐国。武田家家臣。武田の赤備えの山県昌景の娘を正室に迎える。主に山県の寄騎として武田家の戦を転戦する。長篠の戦いにおいて討死する。

真田 信綱 (サナダ ノブツナ)1575年

出身地信濃国。武田家家臣。父幸隆が信濃の国人であったが武田信玄に仕えるようになると幼くして信玄の近侍として働いた。武勇も高く、日本屈指の山岳戦である三増峠の戦いでは殿をつとめ、三方ヶ原の戦いでも活躍した。長篠の戦いでも奮戦をし敵陣まで迫るも討死する。家督は弟昌幸が継いだ。

1537年生まれの武将 01

赤松 義祐 (アカマツ ヨシスケ)1576年

出身地播磨国。12代赤松家当主。四職(京極、一色、山名、赤松)の一家。父晴政との対立により家中が疲弊。晴政側の赤松政秀とは晴政の死後も険悪な関係が続き、一時は滅亡危機に陥ったが、織田家に臣従することにより、生き延びた。

足利 義昭 (アシカガ ヨシアキ)1597年

出身地山城国。足利22代当主。室町幕府15代征夷大将軍。慣しとして5歳の時に出家し大和国、興福寺にて仏門に入る。しかし、永禄の変で、兄義輝が暗殺された後、還俗する。織田信長の協力を得て京に戻り、安定した日々を過ごすも、次第に関係が悪化。浅井、朝倉をはじめ本願寺、武田、上杉、毛利らと組み織田包囲網を形成し対抗するも敗北。京から追放され毛利家に逃れる。信長の死後は京に戻った。

板野岡 江雪斎 (イタベオカ コウセツサイ)1609年

出身地相模国?。北条→豊臣→徳川。北条氏政の右筆にして、評定衆の一人。北条家における外交で直接的な交渉役として活躍した。北条家が滅びると豊臣家に仕え、秀吉が死ぬと徳川家康に仕えた。その交渉力は高く、北条と真田の沼田領の問題で秀吉に弁明をしに来た際は高い評価を受け、秀吉自ら茶を立てたと言われている。

岡本 頼氏 (オカモト ヨリウジ)1606年

出身地肥後国。肥後の大名相良家の家臣。相良家の戦で数々の武功を挙げている。相良家が島津家の家臣となると、島津義弘に評価され、武功を挙げた。槍に長けてるだけでなく歌道にも明るく、文武両道の将であったと言われる。

1536年生まれの武将 03

北条 氏繁 (ホウジョウ ウジシゲ)1578年

出身地相模国。北条家家臣。地黄八幡と恐れられた北条綱成の嫡男で家督を相続。父綱成が2代当主北条氏綱の娘を正室にしたのと同様に3代氏康の娘を正室に迎えた。玉縄城での籠城戦や里見との合戦(第二次国府台)などで活躍した。また東北地方への外交も担っており、高い交渉力があったと言われる。

真柄 直隆 (マガラ ナオタカ)1570年

出身地越前国。朝倉家家臣。越前国の有力国人の1人。姉川の戦いでは朝倉家は敗れるものの、愛刀千代鶴国安を手に朝倉軍と対峙していた徳川軍の陣深くまで切り込んだものの、討死する。

三沢 為清 (ミサワ タメキヨ)1588年

出身地出雲国。尼子→大内→毛利。出雲国の国人で、尼子、大内の二代勢力に挟まれていのたが上手く立ち回った。その後、同様に国人でありながら、勢力を拡大していった、毛利元就に従うようになり、主に吉川元春の軍に編成された。

三好 政勝 (ミヨシ マサカツ)1632年

出身地摂津国?。細川→三好→織田→豊臣→徳川。三好家傍流の三好政長の子。織田家の京、畿内への進出に反発するも後に降伏。本能寺の変後は豊臣家に仕えた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川秀忠に追従し、大坂の陣においても功があったといわれる。最終的に秀忠の御咄衆にとなった。

1536年生まれの武将 02

九戸 政実 (クノヘ マサザネ)1591年

出身地陸中国。南部家家臣。南部24代当主、南部晴政の領土拡大に大きく貢献した。しかし、南部晴政が死に、後継者である晴継が暗殺されると、25代当主となる南部信直と対立。この対立は根深く、奥州仕置の後であるにも関わらず挙兵する。信直は南部家のみで対処することは難しいと考えて、秀吉に九戸家討伐の要請をする。10倍以上の兵に囲まれ、間もなく降伏。斬首される。

佐々 成政 (サッサ ナリマサ)1588年

出身地尾張国。織田→柴田→豊臣。織田家精鋭の黒母衣衆に名を連ねる。鉄砲の運用に長けており、織田家の主たる合戦に参戦。織田家が越前国を得た後は柴田勝家の与力として活躍する。本能寺の変後は、上杉家に対する抑えとして働いた。賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると降伏するも、小牧・長久手の戦いでは徳川家康、織田信雄側に立ち、豊臣家と戦い、再度降伏し、大幅な減封を受け入れる。後に肥後一国を任されるも肥後国人一揆が起こり、この責任をとり切腹した。

南光坊 天海 (ナンコウボウ テンカイ)1643年

出身地陸奥国。天台宗の僧にして、家康の側近。各地の寺々を転々とし、学を高め、武田信玄、蘆名盛氏ら名将に評価され、一時は彼らの領地にて定住する。その後関東の寺で住職を務め、徳川家康の側近相談役的立場となる。

1536年生まれの武将 01

足利 義輝 (アシカガ ヨシテル)1565年

出身地山城国。足利20代当主。室町幕府13代征夷大将軍。11歳にして将軍職を継いだ。幕府の権威の回復に努め、一定の成果を上げながらも、三好長逸、三好政勝、岩成友通ら三好三人衆と皆松永久秀の子、松永久通らの軍勢に囲まれて、憤死した。

池田 恒興 (イケダ ツネオキ)1584年

出身地尾張国。織田家家臣。犬山城、兵庫城、大垣城城主。幼い頃から織田家に仕えた。信長に従い、犬山城を拠点として、各地を転戦。謀反を起こした荒木村重を破ると、その領地(摂津)を任された。本能寺の変直後は、秀吉と合流し山崎の戦いにても活躍する。清洲会議でも秀吉の側に立った。賤ヶ岳の戦いには参戦はしていないが、その後、大垣に転封。小牧・長久手の戦いでは、徳川家康を相手に戦うも、嫡子元助、婿森長可と共に討死した。

猪苗代 盛国 (イナワシロ モリクニ)1590年

出身地陸奥国。蘆名→伊達。猪苗代城城主。蘆名盛氏が死に、蘆名家の力が日に日に衰えると、居城猪苗代城ごと伊達家に寝返り、蘆名家が滅ぶ大きな要因となった。

城井 鎮房 (キイ シゲフサ)1588年

出身地豊前国。大内→大友→島津→豊臣。城井谷城城主。父長房から、若くして領国を任された。大寧寺の変で大内義隆が倒れると、大友家に仕えるようになり、正室に大友宗麟の妹を迎えるも、島津家の勢力拡大に伴い、島津家に仕えるようになる。九州征伐により、今度は豊臣家に仕える。その後、伊予への転封と家宝の引渡し等の要求を拒否し、城井谷城で挙兵するも降伏する。一時は豊臣家家臣黒田孝高、長政に従うも、警戒され酒宴と言われ呼び出されたところを暗殺された。

1535年生まれの武将

荒木 村重 (アラキ ムラシゲ)1586年

出身地摂津国。池田家→織田家→豊臣家。摂津国池田家の一家臣から、織田信長に気に入られ、取り立てられた後、畿内の合戦にて活躍する。摂津一国を与えられ有岡(伊丹)城を拠点として畿内、播磨および中国地方へと睨みを利かせたが、突如織田家を裏切る。幾度もの説得を断ったあげく、家臣、一族をおいても逃亡し毛利家に逃げ難を逃れる。信長の死後は茶人として名を馳せた。なお、裏切りの理由は諸説あり、どれも決定的とは言えない。

肝付 良兼 (キモツキ ヨシカネ)1571年

出身地大隅国。肝付家17代当主。伊東家と同盟関係を結び、島津家に対抗する。成果は出たが、37という若さで、志半ば病死した。

島津 義弘 (シマヅ ヨシヒロ)1619年

出身地薩摩国。島津家17代当主。15代貴久の次男。鬼島津として恐れられた。「九州の桶狭間」と言われる木崎原の戦いでは300の兵で3000の兵を破り、総大将、伊東祐安をはじめ、伊東家の重臣をことごとく討ち取った。1587年豊臣秀吉との合戦においても、奮戦するも、兵力差著しく、兄義久に続き、降伏する。この時、体面として義久が義弘に家督を譲った。朝鮮出兵でも圧倒的な兵力差がありながらも勝利し、圧倒的戦果をあげた。さらに、関ヶ原の戦いで無謀とも思われる、的中突破、通称「島津の退き口」により、戦における名声を決定的なものとした。さらに、その後の外交の成果により、減封もなかった。

丹羽 長秀 (ニワ ナガヒデ)1585年

出身地尾張国。織田家家臣。織田家家中での争いである稲生の戦い以前から、終始織田家に仕える。浅井家佐和山城を落とした際、城主となる。その後、若狭国を与えられ、その後も織田家の主な合戦に参加する。織田家中において柴田勝家と並び、評された。しかし、本能寺の変後は地理的有利にも関わらず、秀吉に遅れをとり、123万石を与えられたが、長秀が死んだ後、子、長重は若狭国15万石へと減封された。織田家において、木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間という風評があり、米五郎左が長秀にあたり、米のように欠くことができない存在と評された。

1534年生まれの武将

小野寺 輝道 (オノデラ テルミチ)1597

出身地出羽国。小野寺家13代当主。12歳の時、父、稙道が家臣により殺され、大宝寺家に逃れる。その後、大宝寺家や旧臣の支援を受けながら領地を取り戻し、勢力を拡大。内政外交共に積極的に行った。

葛西 晴信 (カサイ ハルノブ)1597

出身地陸奥国。葛西家17代当主。鎌倉時代初期からの名家。伊達家と手を組み、領地を守るも豊臣秀吉により改易される。

蒲生 賢秀 (ガモウ カタヒデ)1584

出身地近江国。六角家家臣。近江日野城城主。六角家が滅ぶとともに、織田家に仕える。信長の信頼も厚く、よく安土の留守を任された。子に蒲生氏郷がいる。

齋藤 利三 (サイトウ トシミツ)1582

出身地美濃国。齋藤家→織田家。(稲葉→明智)明智光秀の家臣として有名。武、教養ともに高い能力があった。義妹が長宗我部元親の正室となっており、本能寺の変などに色々と考察がある。娘に春日局がいる。

谷 忠澄 (タニ タダスミ)1600

出身地土佐国。長宗我部家家臣。土佐神社の神主から長宗我部元親の家臣になり、外交面で多くの功績を残す。時には主君元親への諫言も行い、豊臣家と徹底交戦を主張する家中を説き、和議へと向かわせた。戸次川の戦いで元親の長男、信親が討死した際は、交戦中にも関わらず、島津の陣に赴き、遺骸を回収するなど、高い交渉力が伺える。

鉢屋 頼隆 (ハチヤ ヨリタカ)1589

出身地美濃国。織田家家臣。織田家黒母衣衆に名を連ねる。織田家の主たる合戦に参戦する。近江肥田城、岸和田城等を拠点とした。信長の死後は秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いの後、和泉国(大阪府南西部)から越前国敦賀へ転封となった。その後も秀吉に従い転戦し、豊臣姓を貰ったが、後継者がおらず、家は断絶となった。余談だが、その後敦賀には大谷吉継が入った。

細川 藤孝 (ホソカワ フジタカ)1610

出身地山城国。足利家→織田家。足利義輝に仕え、その死後は義昭に仕えるながらも、織田信長に臣従し、義昭と信長の関係が破綻してからは、完全な織田家の家臣となる。畿内周辺の合戦を中心に転戦。明智光秀とは旧知で、長男忠興の正室として、玉(ガラシャ)を迎えており、非常に親密な関係にあったが、本能寺の変時は明智側につくことはなかった。関ヶ原の戦いでは東軍につき、忠興の活躍もあり細川家は豊前小倉藩として約40万石へと加増された。文武両道の将であり、特に文化人として優れており、彼のみが持っている知識があり、関ヶ原の戦いで田辺城を守っていた藤孝の死を恐れ、勅命(天皇の命令)により、講和するに至ったというエピソードなどもある。

結城 晴朝 (ユウキ ハルトモ)1614

出身地下総国。下総結城家17代当主。佐竹、宇都宮、小田などと隣接し、彼らに漏れず、上杉、北条の間をうまく立ち回った。外交能力に長けており、上杉謙信が死んで、北条が主敵になると、佐竹、宇都宮家と婚姻関係をつくり、対抗した。秀吉により、惣無事令が出されると小田原征伐に参陣し所領を安堵された。秀吉の養子になっていた徳川家康の次男秀康に家督を譲った。

iPhone X体験談

iPhone XとiPhone8PLUSにしようかかなり迷いました。メモリは2GというのがネックでiPhone 8は最初から選考外。ネットの評判もまあ、微妙。いい機種だけど、価格も考えてここまでいるか?という感じ。店員さんにどっちがいいか聞いたところ、あまりXはおすすめしてない感じがありました。いい機種だけどなんとも言えないですねー、みたいな感じで。結局、ポケットに入れる場合のことも考えてXにしました。

そんな訳でiPhone Xの感想を書いていきたいと思います。iPhone 3G以来の久しぶりのiPhone。iPod touchやiPad、iPad Proは使用しているのでOSは問題ない。androidを使ってるので、ホームボタンは無くても大丈夫。

わかったこととしては結局新しいものは慣れですね。

数日経てば一緒。アプリを閉じる時の上へのスワイプも慣れるとなんら問題なかったし、わからないことはその都度ネットで調べればわかるし、私にとってはベストチョイスでした。画面綺麗。あと、改めて見ると256Gあると楽だなと思いました。音楽をあまり整理してないので100Gぐらいある。それを入れても全然余る。あえて不安な点は、こういう色々挑戦した機種を出す時ってその次の機種の方が明らかにいいことが多いってことくらいです。前機種で改良点などをあぶり出して反映させられるので。といった感じです。また、何か感じることがあれば書いていきたいと思います。

私のスマホ遍歴

私が初めてスマホにしたのは割と早いです。ソフトバンクから機種はAppleのiPhone3G。その次はドコモにてSony EricssonのXperia acro。そして同じくドコモでXperia Z、Xperia Z3(SONY)。U-NEXTでZenFone2(ASUS)。ワイモバイルでP9(HUAWEI)。ソフトバンクでXperia XZ(SONY)といった形でスマホにべったりです。iPhone3G以降はiPad touchやiPadなどでiOSに触れてはいたものの、ずっとAndroidです。iPhoneにしなかった理由はいずれまた書きます。

今日はこれらの端末の今も覚えている印象を簡単に書いて終わりにしたいと思います。

iPhone3G 当時のスマートフォン端末としては一際完成度が上。2年持たず。満足度3(5段階評価)。

Xperia acro iPhoneは避けたくて、性能が高かった。今は亡きMEDIASと悩んだ挙句、SONY党のために選択。2年が寿命。満足度3。

Xperia Z 時代はまだ、スマホの中でも小型が主流である中で、いち早く大型のスマホにした。実際、機種性能は大きいだけあり性能が高い。2年を優に持った。満足度5

Xperia Z3 ZenFone2とそこまで変わらない性能を持つ。Z3は訳あってあまり使用していないが、OSもAndroid6まではアップデートもあり指して不満なし。満足度5。

Xperia XZ カメラの歪みありとの報告もありますが、個体差があるのか私の端末では特になし。デザインも好みで強く満足。不都合は今現在ないが、欲を言えばメモリが4GBあればもっと良かったかなとは思う。満足度5。

ZenFone2 コストパフォーマンスは凄くいい。ただ電池の消耗は結構早い。不満点としてはAndroid5までしか出来ないこと。満足度4。

P9 背面の色がとても魅力的。Kirinという自社のよくわからないCPUを使っているが、性能は価格で考えれば申し分ない。カメラは結構いい。設定次第で変わるのかも知れないが、夕焼け空を撮影した時、Z3、P9、XZでは一番美しく撮れた。個人的な使用用途の都合上デュアルSIMでないことに不満はあるが満足度高し。Android7にもライバル機種のZenFone3よりも3ヶ月ほど早く更新できるようになり、意識の高さも伺わせる。満足度5。

過去を懐かしみながら、これからスマホにする人の少しでも参考になっていたら幸いです。