1538年生まれの武将 01

今川 氏真 (イマガワ ウジザネ)1615年

出身地駿河国。今川家12代当主。今川義元の長男として生まれる。桶狭間の戦いで父義元が討死する。勢力維持に努めようとするも、徳川家康(当時は松平家康)の独立、武田家の方針転換(徳川家、織田家との関係を構築しての南下政策等)により、領地を追われることとなる。その後北条家、徳川家、京などで暮らした。歌道や蹴鞠など一流で、一流の文化人でもあった。

佐武 義昌 (サタケ ヨシマサ)1620年

出身地紀伊国。本山→雑賀衆→豊臣(浅野)。若くして鉄砲を修め、根来寺に入り仏門における修行をする。一時、土佐の本山家に仕えるも雑賀に戻り織田家と徹底抗戦する。秀吉の治世の中でも、初めは反抗したが、後に当代きっての鉄砲の名手でもある浅野幸長に仕えるようになった。

武田 義信 (タケダ ヨシノブ)1567年

出身地甲斐国。武田信玄の長男。信濃攻めや上杉謙信との川中島の戦いでも大いに活躍したが、今川義元亡き後の今川家に対する方針で信玄と対立し、義信側の信玄暗殺計画が露見すると幽閉され、病死あるいは自害したとされる。

鍋島 直茂 (ナベシマ ナオシゲ)1618年

出身地肥前国。龍造寺→豊臣→徳川。龍造寺家当主隆信の従弟かつ、義弟として龍造寺家拡大に尽力する。沖田畷の戦いで隆信が討死にした際は当主が討死するという状況下にありながら有利な条件で和睦した。秀吉による九州征伐が始まると秀吉に従い、立花宗茂らと共に先陣を切って戦った。関ヶ原の戦いでは息子勝茂は西軍についたが、直茂は東軍についた。直茂の活躍により、主家であった龍造寺家より力を持つようになり関係は悪化をした。また、家康より鍋島家が肥前佐賀を治めることを認められた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。