島津 歳久 (シマヅ トシヒサ)1592年
出身地薩摩国。島津貴久の三男として島津家をよく支えた。豊臣秀吉による九州征伐に対し評定の中で秀吉の実力を高く理解しており、義久、義弘、家久の中でただ一人和睦を主張するも受け入れられることはなかった。梅北一揆の際、秀吉から一揆の首謀者の一人とみなされ、兄義久の軍により討死した。実際は謀反の心はなく、一揆に加担していなかったと言われる。
清水 宗治 (シミズ ムネハル)1582年
出身地備中国。三村家(石川)→毛利家。初めは三村家家臣石川家に仕えていたと言われるが、三村家が毛利家と対立した際、毛利家家臣となったと言われる。主に小早川隆景の元で働き、高く評価された。織田家による中国攻めにあたり、居城備中高松城にて籠城したが、黒田官兵衛が案による水攻めにより降伏(この直前に本能寺の変が起こる)。責任をとり、自害した。
下間 頼廉 (シモツマ ライレン)1626年
出身地摂津国?浄土真宗石山本願寺所属。浄土真宗本願寺派宗主顕如の元で織田信長と対抗したが石山合戦が終わり、石山本願寺を去った後は特定の勢力につかず、むしろ全国の一向宗徒の織田家との対立を辞めるよう説いた。信長の死後は、一向宗の有力人物として他方から軍を提供して欲しいと依頼されたが中立を近づいた。天下の趨勢が豊臣秀吉に傾くと、秀吉に従い本願寺町奉行に任じられた。