1534年生まれの武将

小野寺 輝道 (オノデラ テルミチ)1597

出身地出羽国。小野寺家13代当主。12歳の時、父、稙道が家臣により殺され、大宝寺家に逃れる。その後、大宝寺家や旧臣の支援を受けながら領地を取り戻し、勢力を拡大。内政外交共に積極的に行った。

葛西 晴信 (カサイ ハルノブ)1597

出身地陸奥国。葛西家17代当主。鎌倉時代初期からの名家。伊達家と手を組み、領地を守るも豊臣秀吉により改易される。

蒲生 賢秀 (ガモウ カタヒデ)1584

出身地近江国。六角家家臣。近江日野城城主。六角家が滅ぶとともに、織田家に仕える。信長の信頼も厚く、よく安土の留守を任された。子に蒲生氏郷がいる。

齋藤 利三 (サイトウ トシミツ)1582

出身地美濃国。齋藤家→織田家。(稲葉→明智)明智光秀の家臣として有名。武、教養ともに高い能力があった。義妹が長宗我部元親の正室となっており、本能寺の変などに色々と考察がある。娘に春日局がいる。

谷 忠澄 (タニ タダスミ)1600

出身地土佐国。長宗我部家家臣。土佐神社の神主から長宗我部元親の家臣になり、外交面で多くの功績を残す。時には主君元親への諫言も行い、豊臣家と徹底交戦を主張する家中を説き、和議へと向かわせた。戸次川の戦いで元親の長男、信親が討死した際は、交戦中にも関わらず、島津の陣に赴き、遺骸を回収するなど、高い交渉力が伺える。

鉢屋 頼隆 (ハチヤ ヨリタカ)1589

出身地美濃国。織田家家臣。織田家黒母衣衆に名を連ねる。織田家の主たる合戦に参戦する。近江肥田城、岸和田城等を拠点とした。信長の死後は秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いの後、和泉国(大阪府南西部)から越前国敦賀へ転封となった。その後も秀吉に従い転戦し、豊臣姓を貰ったが、後継者がおらず、家は断絶となった。余談だが、その後敦賀には大谷吉継が入った。

細川 藤孝 (ホソカワ フジタカ)1610

出身地山城国。足利家→織田家。足利義輝に仕え、その死後は義昭に仕えるながらも、織田信長に臣従し、義昭と信長の関係が破綻してからは、完全な織田家の家臣となる。畿内周辺の合戦を中心に転戦。明智光秀とは旧知で、長男忠興の正室として、玉(ガラシャ)を迎えており、非常に親密な関係にあったが、本能寺の変時は明智側につくことはなかった。関ヶ原の戦いでは東軍につき、忠興の活躍もあり細川家は豊前小倉藩として約40万石へと加増された。文武両道の将であり、特に文化人として優れており、彼のみが持っている知識があり、関ヶ原の戦いで田辺城を守っていた藤孝の死を恐れ、勅命(天皇の命令)により、講和するに至ったというエピソードなどもある。

結城 晴朝 (ユウキ ハルトモ)1614

出身地下総国。下総結城家17代当主。佐竹、宇都宮、小田などと隣接し、彼らに漏れず、上杉、北条の間をうまく立ち回った。外交能力に長けており、上杉謙信が死んで、北条が主敵になると、佐竹、宇都宮家と婚姻関係をつくり、対抗した。秀吉により、惣無事令が出されると小田原征伐に参陣し所領を安堵された。秀吉の養子になっていた徳川家康の次男秀康に家督を譲った。

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